2009年11月2日月曜日

教授と青年のお話

「先生、いらっしゃいますか?」
慌てて老人は右手首の傷を隠した。
「どうぞ」
入ってきたのは学生だった。
「失礼します。お呼びとの事ですが」
「わざわざすまないね。あぁ、緊張しなくて良いよ。レポートの採点結果を伝えるだけだ」
老人は内心、苦笑してしまう。目の前にいる青年が緊張した姿など見た事がなかった。
「良い出来だよ。君の文章は実に読ませるねぇ」
「あー、その。えー、有り難うございます」
青年は頭をかく。照れているのだろうか。
「満足してもらっては困る。学生にしては良い、というだけの話だ」
「はい。精進します」
「宜しい。では、珈琲どうだね?」
「は? はぁ、戴きます」

しばらく雑談をした。
疲れた身には、愚痴る相手が必要だった。
「引き止めて済まなかったね」
「いえ。では、そろそろ……知り合いを待たせていますので」
「例の女性かな? 噂になっている様だよ。あの美人は誰なんだ、とね」
「……」
「君は時折、分かりやすい表情をするね」
初々しい反応。思わず笑い掛けた瞬間、目の前が真っ白になった。


「ーー先生を俺が支えています。大丈夫です、ソファーへ横になっていただきます」
「済まない。疲れが溜まっていたようだ」
「えぇ、寝不足のご様子でした」
「やれやれ。教え子に悟られる様では、私も老いたって事かねぇ」
「すぐに救急車を呼びます」
「止めてくれないか」
「では、俺が病院まで送ります」
「机の上に薬がある。それを飲めば大丈夫だよ」
嘘だった。瓶こそ変えてあるが、単なるビタミン剤。
額の汗を右手で拭う。ベトリとした感触が気持ち悪かった。
視界が戻る。
好ましくさえ思っていた青年はーー右手の傷を睨み付けていた。
妻に血を与えるために何度も何度も何度も切り続けた私の傷。
「その傷は……」
「妻の看護をしていて付いたんだろう。大した事はない」
捲し立てる。真相がバレてはいけない。老人は理由もなく確信していた。
突然、電子音が鳴り響く。
青年の携帯だ。
「君の恋人かな? 早く行ってあげなさい。女性を待たせるものではないよ」
行ってくれ。頼む、行け。行くんだ。
呼び出しは続いている。
「分かりました。必ず病院には行って下さいね」
「あぁ、そうしよう」
「失礼します」
「またな、玖世君」
玖世天は出ていった。安堵の息が漏れるのは止められない。


不自然かつ大量の切り傷。
慌てて隠そうとする不自然な態度。
病床の家族。
そして、あの呼び出し音は銀誓館のナンバーだけに設定している。
答えは出ているも同然だった。
「卒業生の玖世さんですね。緊急事態です」
「女性型リビングデッドだろ。場所だけ言え。すぐに片付ける」
「は、はい。住所は……」


その日、玖世天は一体の女性型リビングデッドを排除した。
運命予報によれば、リビングデッドに血を与えていた男性は帰宅した直後に殺害されるはずだったと言う。